古流茶杓
竹坐会

ワークショップ

自分だけの茶杓を削る。

一日で茶杓と共筒をつくる。

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<竹茶杓に想うこと>

茶杓について作ったり、調べたりしていると、
いろいろな疑問がわいてくる。
ここでは検証したことを述べてみたいと想う。

茶杓って何だと云われれば、「ただ茶を掬う道具」というのが本質であろう。もちろん、そうではあるが、それではあまりにも寂しい。茶の湯を背景しているとはいえ薬匙を経て、数百年も存在していることを考えれば、もう少し説得力のある説明が欲しいと想ったりして。(^^ゞで、つらつら考えてみた。茶杓は茶人が自ずから削って茶事茶会に供するものであり、茶道具の中で唯一茶人が手作りできるモノである。また、茶杓は茶人の魂とも云われ師匠から弟子に、あるいは知人に贈られた精神性を秘めた道具でもある。そこには茶人の哲学、学識、趣味嗜好などすべての要素が込められ、それを引き継ぐ、あるいは理解できる人物へ手渡されるモノでもあった。ゆえに「魂」と云われる所以である。さらに竹茶杓は「わび・さび」から生じている。そこには縄文人の自然への畏敬の念からはじまり、仏教の「色即是空」を取り込み、「もののあはれ」を経て「わび・さび」へと心の置き処は変化していく。自然という「うつ(空)」を源流として仏教の教えに「うつり」「うつし」、さらに決して同じではない自然の移りかわりである「うつろい」を愛で、「うつつ(現)」という茶の湯を通して茶杓という「うつわ」を形づくっていった。ここには西洋人とはまったく対極にある自然との共存共栄、自然に戻るという死生観など・・・日本人の根本思想が存在しているのだと想う。茶杓を作るとき、使うとき、こんなことをふと想えば、見方も扱いもずいぶんと変わりそうな気がするのはわたしだけ?


「雉股」について

ご存じのように、中節順樋の茶杓で蟻腰、雉股と呼称する部分がある。
蟻腰は「腰」が「ある」ことから本来は「有り腰」であるが、昆虫の蟻の腰にもにているところから、蟻腰が一般的な呼称となっている。
では、雉股はどこからつけられたのか。もちろん、国鳥でもある雉の太ももに似ているところからきていることは明らかだが、ほかにも呼び方はあるように思える。そこで、いろいろ調べてみると、日本刀の茎(なかご)や馬具である鞍にもその呼称がみられる。このふたつは歴史も古いので、おそらくここから転嫁であろうと推測する。
では、なぜ、雉なのか。
それをひもとく前に「雉」という文字が使われた言葉を拾ってみることにする。
シンボル・・・国鳥に指定されている。雉の雅名は鳳といわている。
元号・・・「白雉」がある。
ことわざ・・・「雉も鳴かずば打たれまいに」「けんもほろろ」、頭隠して尻隠さず」「雉を撃ちに行く」
お札・・・一万円札の裏面として使用されている。
おとぎ話・・・桃太郎の従者となり鬼退治に向かう。
食・・・美味なことから世界中で狩猟鳥となっている。四条流包丁書には「鳥と云えば雉のこと也」と誌されている。
姿形生態・・・色あいが美しく、北海道と対馬をのぞき広く分布している。「焼野の雉(きぎす)、夜の鶴」などの子を思う親の愛情の深さを表わすたとえ話にもなっている。
地震・・・初期微動を察知するので、ここから人も地震がくるのを予知できた。
以上のように日常のさまざま分野で雉が関わっている。このことから「雉」という動物はその姿が美しく、縁起がよい吉鳥であり、古来より生活に密着していて身近な鳥であったこと、その生態が好ましいものであったこと、などが挙げられる、つまりこれほどまで深く日本人が心に浸透し、親しみがもたれていたといえるだろう。
こうしたことから日本刀や鞍の一部分にその形が似ており、親しみも含めて使われ、さらに茶杓のおっとりの裏部分にも名付けられたのではないかと推測するのである。


櫂先のこと

「櫂先」は貝先、葉先、羽先、匙先などとも言われる。
これは櫂先を音で読んだ場合「かいさき」であり「貝先」と変化し、形状からは葉先、羽先、匙先となる。
伝書にはいずれも使われており、名所(などころ)がまだ確立されていなかった名残であろう。
このほかに「榜先」というのもある。金森宗和だけがこれを使っている。ほかではまだみない。
その原文が下記である。
「一 金森宗和云、茶杓ヲ手ニ持ヤウ、茶入ノ蓋ヲ取マテハ、榜先(かいさき)ヲ我前ヘムケテ膝ニ手ヲ乗置テ吉、」
そして、以下がこれに対するわたしの意見である。
宗和の一文に榜先(かいさき)」という見慣れない文字を使った櫂先が顕れる。
榜に「かい」という読みはなく、音では「ぼう」と読むが、訓では「ゆだめ、こぐ、いかだ、たてふだ」などと読む。
説文には「弓弩を輔くる所以なりとあって、弓の曲直を治すためにそえる木。ゆだめの意とする。」とあるので、この曲直を治すことと、ゆだめの意が櫂先の曲がりに通じることで、この字を宛てたのかもしれない。


茶杓と陰陽五行説

 いまのところ茶杓と陰陽五行説との関係について記録された文献は眼にしていない。従ってあくまでも推論となる。
 茶の湯には多大に陰陽五行説が取り入れられている。南方録によれば真の台子の天板は天を顕し、地板は地を指しているという。初座では陰の設えがなされ、後座では陽にかわる。
 風炉の灰方には水の卦を入れ、火と対極させる。
 新しいところでは五行棚があり、あらゆる場面で陰陽五行説が顔を出す。多くの道具類にもそれは生かされている。と、すれば茶杓にもあって然るべきであろう。
 茶杓を作るために竹を採る方法として次のことが挙げられる。茶を掬う匙である以上、広く深いほうが機能的である。樋は枝跡の部分がもっと広く、深い。ひとつ上の節に行くにつれ細くなっていく。したがって櫂先を地に向けて採る方法が竹の正しい採り方であろう。つまり順樋あるいは本樋といわれる理由であろう。
 では、利休が中節茶杓を確立させたとき、この理由だけで竹の採り方をしただだろうか。うがった見方をすれば、これだけ茶の湯に陰陽五行説が取り入れられている以上、茶杓に存在しない方がかえって不自然に思える。
 順樋は櫂先を地に向かって採ることである。地は陰の位となる。つまり順樋は陰の形だろう。とすれは、対極に陽をもってこなければ陰陽は成り立たない。はたして茶杓のどこに陽の要素があるのか。
 竹は陽の位である。ここでは詳細を省くが、ようするに蛇に模され、別名「蛇祖」ともよばれる。蛇は再生を意味するので陽であるから、竹も陽である。
 これを前提に茶杓の順樋(櫂先を下に向けて採る)の成り立ちを考えると、陽の竹に対して陰の向きの櫂先を当てたとは考えられないだろうか。また、利休形ではおっとりの断面図は雉股あるいはかまぼこ形とよばれ、半月の形をしている。円は陽と考えられるので、陰の櫂先に対してこの形を当てたとも考えられるだろう。
 さらに茶の陰陽五行説から茶器は陽の道具として考えられている。陽に対して陰の順樋を使うことで、道具組に陰陽を顕している。
 以上のことから茶杓にも陰陽五行説は取り入れられているのではないかと思えるのである。
ほかにも理由が考えられるが長くなるのでこのあたりにしておきたい。

なぜ元節・止節に逆樋がないか

元節・止節に逆樋はあるのかもしれないが、いまだお目にかかったことがない。もし、作られていなかったとすれば、その理由があるはずである。これも文献が見あたらないので、推論でしかないが、述べてみたい。中節の茶杓にはご存じのように順樋と逆樋がある。順樋は櫂先を根元に向かって採る。逆樋は反対に櫂先を天に向かって採る。理由は樋に関係している。幹を根元から先端に向かってみた場合、樋は枝の生え際がもっとも深く、上にいくほど浅くなる。逆に枝から根に向かっては、樋がないか、あっても浅い。ときに通樋といって節を境に上下に樋の通っているものもあるが、これは稀である。茶杓は茶を掬うものである以上、樋が深いほうが茶を載せやすい。この場合、順樋の場合、根元に向かって採ったほうが、樋がしだいに深くなっていくので、掬うことが目的の茶杓には適している。また茶の湯の自然の法則に従うという理論にも適っている。逆樋の場合、竹の先端に向かうほど樋が浅くなっていくので、茶を掬うことの目的に反していることになる。
こう考えていくと元節・止節では必然的に逆樋は作られないことになる。
また、止節において逆樋で採った場合、節の部分の切断面に枝の跡がみられ美しくない。こんなことから逆樋はつくられなかったのではないだろうか。
元節・止節の竹の採り方は、構造的によく適った作り方といえよう。
(すべての文章において流用および引用は不可)


留節と元節について

行の茶杓には留節と元節の2種類があり、さらに留節も2種類ある。しかし、現在、行の茶杓として留節も元節も同じであると誌された書籍が多い。おかしなことである。名称が異なれば形も異なるはずである。
事実、違う。
留節は節位置で留めたもので、それには第一の節で留めたものと、第二の節で留めたものの2種ある。元節は節をさけて第二の節の山を下りたあたりで留める。なぜ、同じであるといわれているのかは判然としない。点前としてはかわりがないので、渾然としたのか。調べてもその理由はわからない。成立を推測してみると三つのことが考えられる。ひとつは中節から発生したもので、節を下げていき元節が作られ、つぎに留節が誕生したとする考え。
ふたつめは、格式において行が真を簡略化したものだとした場合。無節から節の部分をいも茶杓の珠に見立てて留節をつくり、ついで節を少しあげて元節としたとするもの。
最後は、元節が中節から生まれ、留節は無節から創作されたというもの。つまり、上記二つを併合したもの。いずれもありそうである。
はたして真相はどれだろうか?
ただ、思うのは無から新しいものを創作するには多大なエネルギーが必要だが、アレンジする場合はさほどではない。
さて、武野紹鷗はどちらを選んだのだろう?
(すべての文章において流用および引用は不可)
なぜ茶杓は、竹で作られたかの別推論
茶杓はもともと薬匙で象牙で作られていた。
 やがて、竹で作られるようになるが、中国からも竹の匙は伝わってきていたことと、当時の庶民が竹を利用して匙状のものは作っていたと思われるので、それが再構成されて茶の湯に生かされたのであろう。
 これは主力としての推論。
 で、別の角度から考えた場合・・・
「たけ」という名称は、一日に数十センチも伸びるその成長の過程が猛々しいことから、「竹」という名前がついた。
 また、古代より竹には霊力があると信じられている。
 それは猛々しいに由来するその驚異的な成長力にある。一晩で数十センチも成長するその姿に、古代人が畏敬の念を抱いたことは、自然であっただろう。
 現在でも地鎮祭に四方に注連縄を張りめぐらすための葉つきの青竹を「忌竹」というが、竹の霊性を信じていたからである。
 古代においても「櫛」は単なる装身具としてではなかったし、農具として使われる「箕」や「籠」にも強い呪力があると見なされていた。
 さらに、根や葉は早くから生薬としても用いられてきた。筍は滋養分があり精力のつく食物として今でも好まれ、おにぎりなどの食物は葉に包んで保存した。ビタミンKが菌の繁殖を抑える作用があるからだが、昔の人々は知るよしもない。やはり霊力があると信じたことだろう。
 このあたりのことがベースとして日本人の生活習慣に根ざしいたと思われる。
 従って竹の細工のしやすさ、強度、美しさに加え、上記のことも踏まえた上で、日本では竹の茶杓が主流になったのではなかったか。

なぜ、茶杓に孟宗竹はないのか

代表的な竹は苦竹、孟宗竹、淡竹などですが、茶杓は淡竹や孟宗竹はほとんど使われません。
孟宗竹はかわり竹なら使うことがあります。たとえば節がたくさんある、景色がおもしろなどです。
では、なぜ使われないのでしょうか?
これは竹茶杓が作られはじめて室町後期には孟宗はなかったからです。孟宗竹が普及しはじめたのは江戸中期からです。使いたくても使えなかったわけですね。
それと肉厚で、繊維が荒いことも挙げられるでしょう。
では、淡竹どうなの?となります。
苦竹に比べて、枝のでる位置が地上から遠い上の部分からでます。したがって棹の部分は癖がなく、割とまっすぐになりますが、樋がないところが多くなります。上に行けば行くほど棹は細くなるので、とうぜん樋が浅く、狭くなるということですね。ほかに棹の色が悪いことも使われない理由となります。
また淡竹は油分が多いのと割れやすいので、建築部材ではほとんど使われることはありません、従って煤竹はできないので、淡竹の煤竹で茶杓を作ることは不可能なんですね。
その点、苦竹は樋も深く、広く、棹にも色
艶があります。もちろん、煤竹もあります。こんなことが苦竹が使われる理由なのではないでしょうか。

(すべての文意において無断での流用および引用は不可)